ちょス飯の読書日記

『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』★★★★★  高山文彦著  

講談社刊 2015年発行

平成が終わろうとしているが、天皇陛下美智子皇后が、水俣の地を訪れて胎児性水俣病患者と面会していたことは、知っている人は少ないだろう、鶴見和子一周忌の会に石牟礼道子と、皇后美智子は隣り合い、言葉をかわしたのだという。

石牟礼に胎児性水俣病の人に会ってほしい、と頼まれておふたりはその約束を果たされたのだった。また、水俣病を語り継ぐ被害者のお話も、熱心に聴かれたのだという。

 

石牟礼道子が、逝って一年。昨年4月の「送る会」に美智子様はお出ましになり、もうひとりの道子さんに、献花された。長男道生さんには「大切な方を亡くされました」とお声をかけたのだという。

この本には、石牟礼の晩年の姿がリアルに描かれている。パーキンソン病の症状だけでなく、自分の命を狙われているという妄想もあったという。

また、常に水俣病の人のことを気にかけ、自分の症状も水俣病によるのではないか、と思っていたことも。しかし、石牟礼は患者さんの苦しみがわかってよかったととらえていたのだった。

それにしても、皇太子のお妃選びのとき、雅子さまの母方の祖父がチッソの社長をしていたことから、反対するものもいたということを、あらためて知った。

江頭氏は、銀行からの出向で会社の再建のために、大勢の社員と国策企業を守るために尽力したのだった。しかし、排水をすぐ中止できる立場であったのに、しなかったという。患者たちの苦しみ、亡くなっていった患者たちへの慰謝を誠意をもって、していたのだとは思うが。

患者自らが、立ち上がりチッソに座り込み、責任を認めさせようとした。そのリーダーであった川本輝夫氏のことも、詳しく書かれていた。2月18日は、彼の命日・21回忌。咆哮忌というのだそうだ。合掌

川本の長男、愛一郎氏は父の遺した言葉「熱意とは事ある毎に意志を表明すること」を葬儀のとき語ったという。

輝夫は患者を救済するために闘った英雄であったが、患者や市民からは犯罪者呼ばわりされたり、家族も石礫を受ける境涯であったという。

石牟礼道子と皇后美智子の交流だけではなく、水俣病事件の歴史もよくよくわかるノンフィクションである。