#「迷い」と「決断」

私の迷い、それはブラジャーを着けるかどうか、だった。

あれは、私が10歳の頃今から50年も前のことだ。父は非常に子煩悩で、私達をかわいがってくれた。お風呂には、私と弟と3人でいつも一緒に入っていた。そして、力こぶをつくり、私達に触ってみろといつも言うのだった。

だが、ある日。知らぬ間に、私のお乳が膨らんできてしまった事に気づいた父は、たいそう驚いた。そして、もう「一緒に風呂に入ろう」とは言わなくなった。

私は、早熟なこどもだった。そして、巨乳症だった。父方の祖母が村一番の垂乳根の人で、42歳で生んだ末子の父が赤子の頃は、彼を背負って畑仕事をしながら、着物の胸元から乳房を取り出し、ぐるりと裏返し、そのまま背中に乗せて、授乳させることができたという。

今思えば、従姉妹たちのなかで、なんと私だけが父が祖母から受け継いだ巨乳の遺伝子を継いだようだ。私は、どんどん巨乳になっていった。

11歳、小5の夏に初潮を迎える頃には、私の乳房はもうCカップくらいに育っていた。しかし、当時(1970年初め)の小学生でブラジャーをしている女子は私の小学校にはひとりもいなかった。

大きいお乳を、男子は触りたがったり、走るとお乳がゆっさゆっさと揺れるので、好奇の目でみられたり、本当に恥ずかしかった。それなのに、自分だけが大人の女性のように、ブラジャーをするということが嫌だった。

実は、私は体育は苦手だが、勉強がよくできて気は優しくて気配りの人だったので人気爆投票はいつも一位。毎年クラス委員をしており、リーダー格。

つまり外見上はカーストの最上位にいるのだが、心は繊細で皆より秀でていることをとても恥じていた。特に性的な成長が誰よりも早いことが、自分を打ちのめしていた。

だから、運動会で鼓笛隊の指揮者に選ばれたときも、その栄誉よりお乳を人に見られるのが恥ずかしくてたまらなかった。

先頭に立って皆を指揮して歩くのは、大きなお乳を人に見られることを一番気にしている私にとって、地獄だった。運動会のみならず、お祭りでは町内を一周させられて、どんなに泣きたかったことか。それでも、リーダーたる私は悔しさ悲しさを顔に出さなかった。周囲の人に対して、忖度していたのだろうか。私も、皆と同じいたいけな、こどもだったのに。

 

6年生の冬のある夜

母が、しんみりと「ブラジャーを付けたほうがいいよ」と私を諭した。珍しくクリームシチューを作っているときだった。

私は、泣いた。いやだ、絶対に。他の子が付けていないもの。

母は、「あなたは人より早く成長したのだから、ブラジャーでお乳を抑えたほうが、目立たなくなるし、変質者から女の子は身体を守らなければならない」、と言いたかったのだろう。恐る恐る切り出したに違いないが、彼女の予想通り、娘は断固拒否したのだった。「迷い」はなかった。私はまだ小学生なのだから、大人みたいにブラジャーなんか、したくない!

ずっと、小学生でいる間、ノーブラで私はを通した。

 

そして、中学生になったとき、

私は、「決断」した。中学生になったのだから、ブラジャーをしよう。もう、DからEカップくらいになっていたお乳を、ブラブラさせて歩くわけには行かない。やがて、ちらほら、ブラジャーを付ける子も出てくるだろう。と。

私の中学校は3つの小学校から生徒が来ていた。入学式の後で教室に入ると、すぐ自己紹介をすることとなった。3分の2は知らぬ顔ばかりのクラス。

さて、やっと私の番になった。

開口一番、「皆さん、男と女の体の違いは何でしょうか」と私は問うた。しばしの間をおいて、「男は成長するとひげや、すね毛が生えてきますね、女はお乳が大きくなります」「私は、ブラジャーを今日からつけることにしました。どうか、からかわないでください」と、私は自身の「決断」を同級生たちに表明した。

教室はシーンとなった。そして、爆笑と拍手が沸き起こった。

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